ねりまの南西

旅行記、勉強や研究、思うことなど

南津電気鉄道 多摩・相模原に眠る幻の未成線 ③路線探訪編(後編)

路線探訪~ここを列車が通る予定だった~(後編)

 

(2017年夏、C92にて発行した同人誌の内容を一部修正のうえ掲載しています。)

鑓水駅~武蔵相原駅
 ここまでの区間は計画の段階でとん挫してしまったため遺構は全くありませんでした。しかし、この鑓水駅から終点の相模川尻駅までは実際に用地買収や建設工事が行われた記録の残っている区間です。残念ながら、ニュータウン開発に伴う区画整理や造成、住宅開発が行われたため、分かりやすく目立った遺構は現在はほとんど残っていません。しかし、ほんのわずかに痕跡が残る場所もあるので、その場所も含め見ていきたいと思います。また、過去の航空写真も参照してかつての遺構の在りかについても考えてみようと思います。

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 鑓水駅は、現在の八王子市鑓水、柚木街道の鑓水公会堂入口交差点を北に少し行き、大栗川を渡る橋がある付近に予定されていました。この地区は、南津電鉄の計画の発祥および中心となった集落で、会社設立の会議もこの鑓水の永泉寺で行われています。昭和3年(1928年)11月10日に昭和天皇即位の礼を記念し、「御大典記念此方鑓水停車場」の石碑が路線完成を見据えて駅予定地付近に実際に立てられるなど、計画に対して前向きであったことが見て取れます。なお、この石碑は現在は八王子市絹の道資料館の北西に移設されていますが、現存しています。 南津電鉄の計画が確かに存在したことを示す数少ない物理的証拠の一つです。

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非常に読みにくいが「御大典記念此方鑓水停車場」と書かれている。

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会社設立の会議が行われた永泉寺

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鑓水駅予定地付近

 鑓水駅から相模相原にむけて進む予定地の一部は、実際に工事が行われ、線路が敷設可能な段階まで整地が行われていました。現在では周辺の道路から見た限りではほとんど分かりませんが、鑓水駅予定地を出て西側すぐの写真民家の山側斜面の部分に線路用地が確保されていました。1947年の米軍撮影航空写真(下図)を見るとその路盤の跡がくっきり見えています。年月は経っていても他地区に比べ大きな開発の手が入っていないこの部分は、いまだに遺構が地形には残っていると推察されます。

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1947年米軍撮影航空写真(国土地理院)

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線路用地跡の位置

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この山側斜面に元線路用地があると思われる

  この先、線路は斜面から離れて柚木街道を横断し、鑓水枝畑交差点を掠めて南方向へ進路を変えます。この部分も路盤工事は実施されていたため、かつては用地跡が判別できたようですが、多摩美術大学建設に伴う造成により、その痕跡は姿を消しました。線路は鑓水駅から西へ向かい、鑓水枝畑の交差点南東を掠め南に進路転換します。線路工事の痕跡が見られたのは、その少し先の多摩美術大学敷地南端あたりまでだったようです。

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この付近で柚木街道を横断

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右側は多摩美術大学の敷地 ここにもう線路跡は見当たらない

 計画線は現町田市に入る前後で進路を再び西に向け、JR横浜線相原駅を目指します。 この武蔵相原駅横浜線への接続方法については幾度か検討がなされていたようで、初期計画では横浜線と直交する形で接続していますが、横浜線に並行して駅を設置し、スイッチバック方式とする案や、直交する本線に加えて分岐乗入れ線を別途建設する案も検討されていたようです。

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相原駅付近を走行する横浜線E233系

武蔵相原駅~相模相原駅

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 武蔵相原駅は、現在の町田市相原町付近に予定されてました。本図面の計画では横浜線相原駅の南側で90°交差し、その上に駅の建設を予定していたようです。また、当駅は横浜線と乗換駅になるはずでした。

 さて、この区間では武蔵相原、相模相原と、異なる旧国名を冠した相原とつく駅名が連続しています。一体どういうことなのでしょうか。実は、この地域は境川(かつては高座川とも呼ばれた)という川にまたがって栄えた相原というひとつの集落でした。これが1594年の太閤検地境川を正式な武蔵と相模の境界としたため、相原の集落は分断されることとなり、両岸で所属国の異なる同じ地名が生まれることとなりました。この境界はのちに都県境界となり今に至ります。現在でも、町田市・相模原市双方で相原という地名が存在しています。このふたつの相原地区を通過し、かつ両地区に駅が計画されたために旧国名を冠し区別することとなったようです。

 線路は西進し、境川を越えて神奈川県に入ります。この境川は橋本以南では大幅な河川改修が行われていますが、相原付近は未改修で、かつてのままの蛇行した流路となっています。川を渡って相模原市の相原地区を南西に進んだ先に、次の相模相原駅があります。

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現在の相原駅

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境川

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相模相原駅予定地付近 現在は閑静な住宅街


相模相原駅川尻駅

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 相模相原駅相模原市緑区相原6丁目付近に予定されていました。ここは旧相原村に当たる地域になります。

 この区間もわずかに遺構らしきものが残っていた区間です。1944年陸軍撮影航空写真にはうっすらと右上から左下方向へ向かう線らしきものが確認できます。これが南津電鉄のもうひとつの工事の痕跡です。ちなみに、鉄道省の文書にも川尻付近での工事開始の記録が残っています。

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1944年陸軍撮影航空写真(国土地理院)

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線路用地の跡がかすかに見える

  線路は相模相原を出ると、小規模な工場群を通り抜け、ショッピングセンター・コピオ付近を通過し、相模原市城山総合事務所の北東、城山交番前交差点のやや北まできたところで終点の川尻駅に到達します。

終点・川尻駅は、相模原市緑区 旧城山町の中心部に位置する予定でした。

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川尻駅予定地付近

 ひとまずはこの川尻までの敷設計画だったようですが、正式な書面では残ってないため真偽は不明ではあるものの、地域住民らの証言によると、この駅から富士五湖方面への延伸も視野に入れていたそうです。

 また、この川尻地区を含む旧城山町地区は、南津電鉄と同時期の相模原市街方面からの未成線・相武電鉄や、戦後の京王相模原線の橋本より先、相模中野方面延伸など、何度も鉄道の話が浮かんでは消えていた土地でした。どの計画も具体的な路線計画まで行われてからとん挫していることが大きな特徴です。およそ90年も前から町に鉄道が来ることを願っていましたがこの旧城山町地区に結局鉄道が来ることはありませんでした。

 

補遺:国分寺延伸線・西府村間島延伸線の考察

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 国分寺延伸線は、仮の駅データ自体は手に入ったものの、南津電鉄による具体的な経路を示す図面等は残念ながら発見できませんでした。ですが、南津電鉄が間島まで計画短縮した上で乗り入れを行う予定だった、東京多摩川電鉄の路線計画図を見つけることは出来ました。この計画図は1928年のもので、武蔵小金井から三屋までの計画線が描かれています。そして図面には間島駅の具体的な場所、南津電鉄の一ノ宮方面からの延伸線らしき線が引かれていました。文献等との記述とも一致するので、ここではこの東京多摩川電鉄の図面を参考に国分寺延長線区間のなかで南津電鉄が実際に免許を取得していた一ノ宮から旧西府村・間島までの延伸ルートについて考察を行いたいと思います。

 間島(あいじま)駅は、現在の府中市の四谷一丁目交差点付近に計画されていた南津電鉄・東京多摩川電鉄の接続駅です。南津電鉄は多摩川を渡ってこの間島駅まで延伸し、東京多摩川電鉄に武蔵小金井まで乗り入れ、さらにそこから中央線に乗り入れることで砂利の都心方面への輸送を考えていたようです。また、この延伸区間は当面は貨物営業のみの予定でした。そして、南津電鉄も多摩川付近で砂利採掘事業に乗り出すつもりであったようです。しかし、昭和恐慌と砂利需要低下により南津電鉄・東京多摩川電鉄ともども実現には至りませんでした。

 間島という地名は住居表示には現存しませんが、近くの間嶋神社にその名をとどめています。この付近は東京都下の郊外らしい田畑と住宅の入り混じる風景が広がっています。また、架橋予定地付近の多摩川では、かつて一ノ宮の渡しという渡し船があったようです。

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間島神社

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多摩川架橋予定地付近

 

参考文献

サトウマコト『幻の相武電車と南津電車 昭和恐慌で工事中断』

府中市史』『新八王子市史』『相模原市史』『城山町史』 

出典

国立公文書館デジタルアーカイブ (https://www.digital.archives.go.jp/ )

国土地理院ウェブサイト 地図タイル(https://maps.gsi.go.jp/ 

南津電気鉄道 多摩・相模原に眠る幻の未成線 ②路線探訪編(前編)

路線探訪~ここを列車が通る予定だった~(前編)

 

(2017年夏、C92にて発行した同人誌の内容を一部修正のうえ掲載しています。)


 今回の調査の中で、入手することができた南津電気鉄道の大正14年鉄道省請願時点での路線計画に沿って、現在の地図と対照しながら、実際に予定地を歩いてみました。

 なお、計画路線図は国立公文書館デジタルアーカイブ資料、現在の地図は国土地理院地図を使用しています。

 

一ノ宮駅~和田駅

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 一ノ宮駅は南津電鉄の起点となる駅で、現在の東京都多摩市一ノ宮、現在の京王線聖蹟桜ヶ丘~百草園間のほぼ中間地点の桜ケ丘5号踏切あたりに設置が予定されていました。この駅から玉南電鉄(現京王線)への乗り入れを当初は計画していたため、玉南線に合流するような形で沿うように駅が予定されています。玉南線ははじめは狭軌で建設されましたが、開通後まもなく京王線馬車軌間に合わせた改軌が行われました。このため狭軌での路線計画を行っていた南津電鉄は早々に接続相手を失ってしまうこととなりました。

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合流予定地点付近の桜ケ丘5号踏切

 この付近には、駅名および地名の由来となった武蔵国一ノ宮・小野神社があります。この先でもしばしば登場しますが、古い神社や寺があるところは昔からの町、もしくは集落である可能性が高く、特にこの先のニュータウン開発や区画整理、学園建設でかつてとは全く面影の異なる街並みになってしまった所でも、寺社のある近辺はかつての名残をわずかに残していることがあるので駅予定地の考察をする上でも重要な施設といえます。

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蔵国一ノ宮小野神社

 線路は一ノ宮から南西方向に進路をとり、大栗川西岸の山沿いを進んで行きます。この大栗川はかつてはかなり蛇行した河川でしたが、現在では大幅な河川改修がなされ、直線的で幅の広い川になっています。一部に旧川の跡がわずかに残っており、公園などとして整備され地域住民に今でも親しまれているところもあります。

 現河川と並行してしばらく進むと次の和田駅に到着します。

 

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大栗川 線路は写真右側の山手に走る予定だった。

                           

和田駅~宮の前駅

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 和田駅は現在の多摩市和田の中和田交差点付近に予定されていました。この付近は現在は帝京大学の入り口の一つとなっており、周辺に学生向けの賃貸や商店が散見されます。探訪時はオープンキャンパスが行われていたため、頻繁にバスが往来していました。

 和田駅を出ると、野猿街道沿いを西南西に向きを変えて進みます。中和田天満宮の前を掠めたあたりで多摩・八王子の市境を越えます。旧道の北側を通り、途中で多摩モノレール大塚・帝京大学駅でクロスしたのち、宮の前駅に着きます。

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中和田交差点 この付近が駅予定地

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多摩モノレール大塚・帝京大学駅

 

宮の前駅~下柚木駅

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 宮の前駅は現在の八王子市東中野の天野バス停付近に予定されていました。この駅から、八王子市旧由木村の区域に入ります。この辺りは旧大栗川がそのまま残されており、当時の面影をしのばせます。「宮の前」の名前の通り、駅予定地近くに熊野神社があります。

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熊野神社 宮の前駅の由来となったと思われる。

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旧大栗川 護岸工事はされているが、かつての面影は感じられる。

 このあたりは中央大学の南側の入り口となっており、近くに学生向けのゲーム・古書店などがが立地しています。宮の前駅を出ると、街道沿いを進み、京王堀之内駅北側を通り西方に進路を変えます。京王堀之内近辺は駅前という立地もあり、商業施設が比較的充実している街となっています。線路は大栗川北岸を通り、下柚木駅に到達します。

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八幡宮付近より京王堀之内方面を望む。手前側は戸建住宅、奥側はマンションが多く建つ。南津電鉄は手前交差点付近を左右方向に通過する計画だった。

柚木駅~上柚木駅

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 下柚木駅は、現在の八王子市下柚木2丁目、下柚木交番前付近に予定されていた駅です。下柚木はかつての由木村の中心地で、学校や農協、そして村役場が立地する場所でした。現在でも八王子市由木事務所が本地区にあります。なお住居表示の地区名は「下柚木」「上柚木」ですが、村名は木へんのない「由木村」でした。

 ちなみに、この地域も大栗川南側にある首都大学東京(※2020年東京都立大学に改称)の学生が多く住む、ちょっとした学生の町でもあります。

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柚木駅予定地付近 下柚木交番前交差点

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旧由木村役場跡地 由木支所も現在は移転

 野猿街道は下柚木交差点から八王子市中心部へ向かって北西へ向かいますが、南津電鉄は南西方向へ柚木街道に沿って進んでゆきます。

 下柚木駅を出てしばらくは旧道沿いを進み大田平橋付近で再度大栗川を横切り、山手側を進んで上柚木駅に到着します。

 

柚木駅~鑓水駅

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 上柚木駅は現在の八王子市上柚木2丁目、柚木街道沿いの上柚木の集落の南側に位置する予定でした。上柚木駅予定地の南側一帯はかつて林や農地が広がる丘でしたが、このエリアはほぼ全域で大規模な造成が行われ、マンションや公園、スポーツ施設などが立ち並ぶ多摩ニュータウンらしい景色の広がる地域となりました。

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駅付近の高台から上柚木地区を見下ろす

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上柚木球場の真ん中を計画線では突っ切る

 近くの上柚木公園は、陸上競技場や野球場、テニスコートなどの設備を有する運動公園で、さまざまなスポーツの大会会場としてしばしば使用されています。上柚木公園野球場高校野球西東京大会で使用される球場のひとつでもあります。 

 上柚木駅を出ると、計画当時はなかった野球場を突っ切るように線路は進み、大栗川を渡って次の鑓水駅へ向かいます。なお、上柚木~鑓水間の大栗川を挟んだ両側の高台部分は、一部が切り通しとなる予定だったようです。

 

後編に続く

南津電気鉄道 多摩・相模原に眠る幻の未成線 ①歴史概説編

南津電気鉄道 多摩・相模原に眠る幻の未成線

(2017年夏、C92にて発行した同人誌の内容を微修正のうえ掲載しています。)

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同人誌表紙

 広大な面積を誇り、東京を支える多くの人口を抱える多摩ニュータウン。現在は京王や小田急、多摩都市モノレールが通り、特に多摩センターは多摩地域の交通拠点のひとつとして機能しています。一面に広がる住宅街も、開発前は田畑や畜産農場の広がるのどかな農村地帯でした。行政区域も、多摩村・由木村といった「村」の連続した地域で、人口も今とは比べ物にならないほど少なかったようです。

 また、神奈川県北部の旧津久井郡城山町は、中心部の東側に相模川が流れ、都会の喧騒からかけ離れた落ち着いた町です。かつては相模川の水運で栄えていました。

 そんな南多摩の山あいと相模川のほとりの町に、大正末期から昭和初期にかけて、由木村鑓水の豪農の人々を中心に計画された鉄道がありました。その名は南津電気鉄道。開通に向け、一部用地取得まで行われましたが、残念ながら実現には至りませんでした。計画にあたりどのような経緯をたどったのか、なぜ頓挫してしまったのか、そして具体的にどのようなルートを辿る予定だったのか。今回はその謎に迫りたいと思います。

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大正14年(1925年) 南津電気鉄道線路予測平面図 (国立公文書館)

概要と歴史

路線の計画と会社設立

 南津電気鉄道(なんしんでんきてつどう)は大正~昭和初期に計画された、東京府南多摩郡多摩村一ノ宮(現多摩市・聖蹟桜ヶ丘駅西方)から由木村(現八王子市南部)・横浜線相原駅を経由し、神奈川県津久井郡川尻村(現相模原市緑区)中心部へと達する鉄道敷設計画です。南多摩郡津久井郡を結ぶ計画であったため、両郡から頭文字を一字ずつとり、「南津電気鉄道」と名づけられました。

 この鉄道は、養蚕業が盛んであった由木村・鑓水地区の豪農らが中心となって設立され、鉄道敷設により、南多摩津久井へ観光や産業の誘致を行い、由木村を中心とした多摩南部と津久井郡の振興を図ることが主な目的でした。

 また、相模川で砂利を採取し、都心方面へ輸送して利益を上げることも目的としてありました。当時は東京近郊の河川で砂利採取が盛んに行われ、それに伴う鉄道が相次いで開業していた頃でした。現在の西武多摩川線南武線も当初は砂利輸送を主目的とした路線でした。特に、計画時は大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災直後であったため砂利の需要がかなり高まっていた時期でもありました。

 大正13年(1924年)12月23日、南津電気鉄道の株式会社設立協議会が南多摩郡由木村(現八王子市)鑓水の永泉寺にて開かれました。この協議会では、創立委員長に玉南電鉄(現京王線)の発起人の一人でもあった林副重、常務委員に地元の有力者・大塚嘉義が選ばれ、出席者の全会一致で、早速敷設準備を進めることが決定しました。路線計画は順調に進められ、免許申請に向けて具体的なルート案や敷設方式が決定されました。

大正14年(1925年)9月25日申請時の起業目論見書が以下になります。

一、 目的 地方鉄道法により電気鉄道を敷設し一般乗客および貨物を取り扱うものとする

二、 名称 南津電気鉄道 事務所 東京府南多摩郡由木村鑓水2039番地

三、 資金総額 220万円 出資方法 株式

四、 南多摩郡多摩村―由木村―相原―川尻

五、 軌間 3フィート6インチ (1067mm)

六、 動力 電気 東京電燈株式会社より供給を受ける 直流架空単線式 電圧600V

(国立公文書館 鉄道省資料 南津電気鉄道敷設願却下ノ件)

(なお、このデータは敷設却下時のデータですが、文献やその後のデータ等と照合したところ基本的な部分はその後もあまり変わっていないようでした。)

また、駅は

一ノ宮―和田―宮の前―下柚木―上柚木―鑓水―武蔵相原―相模相原―川尻

の9駅の設置が予定されていました。

 この当時、まだ関東大震災の混乱が収まりきらないころだったためか、無差別に鉄道敷設請願が却下される事態があったようです。その影響のためか南津電鉄も何度か申請は却下されますが、大正15年(1926年)11月20日付で「多摩村・川尻村間免許敷設ノ件」で鉄道省の鉄道大臣より敷設認可が下ります。これにより、南津電鉄計画はより本格的に動き出すこととなります。

                        

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南津電気鉄道の免許状(国立公文書館)

玉南電鉄の改軌と国分寺延伸計画

 南津電鉄は当初起点の一ノ宮駅から玉南電鉄(現京王線府中~京王八王子)に乗り入れを行えるよう軌間1067mmで計画されましたが、大正15年(1926年)、乗り入れ相手の玉南電鉄が開業後まもなくして京王線に合併された上、京王側にあわせた軌間1372mmへ改軌が行われました。これにより免許認可早々に接続相手を失ってしまった南津電鉄は、自力での延伸と他線への接続の方法を今一度模索することとなります。また、関東大震災の被害から立ち直るための帝都復興事業により急激に高まったセメント需要に対応し、多摩川での砂利採掘・輸送業への進出もこのころ計画されたようです。結局、多摩川を渡って国分寺まで延伸・中央線へ接続し、都心部へ直通できる輸送路の実現を目指すこととなりました。

 そして昭和2年(1927年)1月27日、「南津電気鉄道国分寺延長線敷設免許申請ニ関スル件」で国分寺延長の請願が鉄道省に提出されました。事業目論見書の内容はほぼ同じで、起点が北多摩郡国分寺村、終点が南多摩郡多摩村、経過地が北多摩郡西府村となっています。

この延長線の駅は

国分寺武蔵国分寺―西府町―間島― 一ノ宮

の5駅が予定されていました。ちなみに、延伸にあたって、国分寺駅ではなく国立駅に接続する案もあったようです。

 

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旧玉南電鉄区間を走る京王線電車(中河原~聖蹟桜ヶ丘)

 ちょうど同じころ、武蔵小金井から府中を経由し、西府村の多摩川沿いの三屋へ至る、砂利採取を目的とした「東京多摩川電鉄」の免許が申請されようとしていました。南津電鉄はこの東京多摩川電鉄と協議の末、一ノ宮から多摩川を渡って1駅目の間島駅(現府中市四谷)までのみを南津電鉄が建設し、間島からは東京多摩川電鉄線に接続して武蔵小金井まで乗り入れをする方向で固まりました。帝都復興事業による砂利特需の好機を逃すまいと一刻も早い都心部への輸送路を確保したかったようです。そのため、この変更後の区間は貨物のみ取り扱う予定となっています。この区間は、昭和2年(1927年)8月26日付で変更後の路線計画を鉄道省に申請したのち、昭和2年12月27日付で免許が交付されています。

 ここまで南津電鉄は震災後の不況下にあってもなかなか順調な滑り出しを見せました。しかしこのころから、日本経済の雲行きが以前よりまして怪しくなっていきます。その影響は南津電鉄も避けることはできませんでした。

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東京多摩川電鉄の線路平面設計図(国立公文書館)

昭和2年金融恐慌

 昭和2年(1927年)3月の片岡直温蔵相の失言に端を発する取り付け騒ぎが発生します。この事件をきっかけに、台湾銀行が休業し、鈴木商店が倒産するなどして、未曾有の金融恐慌が起こります。この影響で、南津電鉄の株式払い込みにも影響が出てしまいます。1割近くの株主が昭和2年7月20日の第1回払い込み期限までに支払いができない事態となり、再度株主を募集することとなります。幸い、9月末にはなんとか資金の目処が立ち、用地買収交渉や工事開始への準備に取り掛かることとなります。ひとまずこの恐慌は乗り越えることができました。

起工式と路線工事

 起工式は昭和3年(1928年)10月21日午前10時、川尻駅予定地にて挙行されました。同日鑓水でも起工式が行われたようです。「相模川尻、相原間工事施工ノ件」「三屋、相模川尻起点二哩六十四鎖間及相模川尻起点二哩六十九鎖、鑓水間工事施工ノ件」で工事に関して正式な認可を受けた記録も残っています。昭和5年(1930年)6月17日の竣功を目指して、工事は川尻駅付近、鑓水駅付近の2箇所で始まりました。この2箇所での第一期工事は相当な進捗があったようで、路盤は相原付近を除いてほぼ完成していました。

一方で、株主らからの株式の払い込みは以前以上に滞るようになります。そしてさらに苦境に追い討ちをかけるような出来事が発生します。

世界恐慌のさらなる追い打ち

 昭和4年(1929年)10月、ニューヨークのウォール街に端を発する大恐慌が発生します。いわゆる「世界恐慌」です。この影響で、アメリカが主要な取引相手であった日本の生糸の輸出が大きく落ち込むこととなり、生糸価格が大暴落してしまいます。デフレと米の過剰な豊作による農業恐慌も相まって、当時は農業が中心だった南津電鉄沿線の村はかなりの経済的ダメージを被ることとなりました。特に養蚕業が主産業であった由木村は悲惨な状況で、全出資の21%が由木村の住民であった南津電鉄は、もはや株主らから株式払い込みがほぼ見込めなくなり、工事費用のねん出がもはや不可能となってしまいました。このため、途中まで進んでいた建設工事も、中断・凍結されることとなります。

 さらに、昭和5年(1930年)前後、帝都復興事業の大部分の完了とほぼ時を同じくして、砂利の特需は終わりを告げ、貨物輸送での収益も見通しが不安定となり、東京多摩川電鉄ともども間島方面延伸の建設計画も宙に浮いてしまうこととなってしまいました。

会社解散

 昭和恐慌により多大な負債を抱えた南津電鉄は、工事中止以降しばらくはまったく音沙汰がなく、もはや会社は解散同然の様相を呈していました。南津電鉄の重役らも負債の処理に追われ、もう建設どころではなかったようです。昭和6年ごろに一度建設再開の動きはありましたが、結局資金難が原因で再びとん挫しています。

 そしてそうこうしているうちに昭和8年(1933年)前半頃、各区間の敷設免許失効の通牒が鉄道省より通達されます。

計画の終焉

 昭和8年(1933年)8月8日に臨時総会が開かれ、会社解散の決議がなされました。清算人を選定の上、会社解散の申告・手続きを行い、鉄道省に免許を正式に返納する運びとなりました。

 昭和9年(1934年)6月23日「会社解散ノ決議並起業廃止ノ件に対スル免許状(多摩村川尻村)返納ノ件」同年8月15日「多摩村西府村間免許状(不能)ニ関スル件」の2通の文書を最後に、南津電気鉄道の計画は正式に消えることとなりました。



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会社解散ノ決議並起業廃止ノ件に対スル免許状(多摩村川尻村)返納ノ件(国立公文書館

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多摩村西府村間免許状(不能)ニ関スル件(国立公文書館)

これらの文書を最後に南津電鉄計画は終焉を迎えた。

 

 

参考文献

サトウマコト『幻の相武電車と南津電車 昭和恐慌で工事中断』

府中市史』『新八王子市史』『相模原市史』『城山町史』 

出典

国立公文書館デジタルアーカイブ (https://www.digital.archives.go.jp/ )

国土地理院ウェブサイト 地図タイル(https://maps.gsi.go.jp/ 

戦前(1935年前後)の東京市地下鉄計画図を発掘したので今の地図に重ねてみた。

戦前の地下鉄計画図を発掘したので今の地図に重ねてみた話。

1936年(昭和11年)に銀座線の浅草~新橋間を開業させた東京地下鉄道が発行した東京地下鉄道史(乾・坤)をぱらぱらめくっていると何やら見慣れない路線図が載っていた。

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じっくり見ると、今と似た部分もあれば違う部分もあるし、ところどころつなぎ変えてみれば今の路線に近くなるものもある。
この不思議な路線図は、1925年、関東大震災後の帝都復興計画の時に作られた計画を基に、若干の変更を経た1936年(昭和11年)当時の地下鉄計画だ。
この計画図をもとに、戦前の地下鉄路線の計画図を今の地図に重ねてみる作業をしてみた。

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※どうも画像が荒くなってるようなので見づらい場合は以下のツイート画像からご覧下さい…

https://twitter.com/snkisk_s/status/1286345037505335297?s=21

見つけた路線図を現在の地図に重ねただけであり、同時期の別文献の計画図や記述と異なる部分もあるかもしれないが、実現してたら東京はどうなっていただろうか、とあくまで妄想の一つとして思いを馳せてみてほしい。
ただ、最初に紹介した東京地下鉄道建設史の路線図には忠実に従ったつもりである。
(ちなみに最初に見つけたのは大学の地下書庫であった。おそらく5年前くらい。鉄道の古い文献に直接触れられただけで感動があったのを覚えている。)

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同時期の東京市電気局の資料にも類似の計画図が掲載されているため、ある程度信ぴょう性はあると考える。
なお、この路線図の原図はどちらも国立公文書館デジタルアーカイブにていつでも閲覧可能である。

路線図を描くにあたり、以下の点に関して修正や定義を行った。
・駅名に旧字体がある場合は現在使われる漢字に直した。
・ラインカラーはこの図に使用される4色+1色で記した。
・入船町という駅名が重複していたため、5号線の方を(当時の)区名+駅名で(深川入船町)とした。
ちなみに現在の東京の地下鉄にも地名の重複がある場合は新橋駅と中野新橋駅春日駅練馬春日町駅神谷町駅王子神谷駅など、同様の命名方法が使われている。

以下、軽く路線を概説してみる。

1号線:現在の銀座線と三田線浅草線の一部。三田付近で五反田方面と品川方面に分岐することになっていた。
東京馬車鉄道→東京電車鉄道の路線をほぼ踏襲する路線である。
実現しなかった京浜地下鉄道はのちの都営浅草線に引き継がれた。

なお、御成門芝公園、三田の3駅は資料未発見のため仮称として現駅名を記した。

2号線:虎ノ門より南側はほぼ日比谷線と類似したルートをたどる。目黒駅ではなく下目黒が終点なのは目黒不動尊への参詣を意識してか。(市電にも目黒不動尊前までの延伸計画があった)下目黒と天現寺付近は高低差と当時の技術レベルを考えると高架線だった可能性がある。
八重洲口に駅がないのは当時は主要な改札口ではなかったためか。もしくは図ではわかりづらいだけで1号線5号線の槙町駅との乗り換え駅を予定していたのか。
東京駅~浅草橋は総武快速線、浅草橋~森下町付近は都営浅草線、森下町~南千住まではつくばエクスプレスがほぼ同じ経路をたどる。ただしつくばエクスプレスは浅草~南千住間に途中駅がない。
3号線:渋谷~新橋は現在の銀座線の南西部分にあたる。この部分は東京高速鉄道が建設し、開業させた区間である。当初は3号線の計画通り作るはずだったようだが、新橋駅で東京高速鉄道東京地下鉄道と(いろいろあったのち)直通し、そのまま戦中戦後を経てそちらが路線として定着してしまい、思惑と異なる路線となった。
新橋~本郷三丁目丸ノ内線本郷三丁目巣鴨都営三田線にルートがほぼ引き継がれている。
4号線:新宿~四谷見附・本郷三丁目~大塚は現在の丸ノ内線、日比谷~御徒町は蛎殻町から先で若干東に逸れるものの日比谷線が似たルートをたどっている。また、半蔵門~日比谷で有楽町線、浜町~浅草橋で都営新宿線御徒町本郷三丁目大江戸線がわずかながら路線計画と同じ経路を通っている。
路線形がコの字型であるあたりは現在の丸ノ内線と似た性格の路線と言えそうか。
5号線:概ね現在の東西線に一致する。大きく違うのは八重洲通りを突き進むところ。東京駅の真下を通る計画だったらしい。また、早稲田あたりまでは今と似たルートだが、早稲田で急に北に進路を変え、池袋に向かっている。
赤坂見附~四谷見附の連絡線:東京高速鉄道が渋谷~新橋を開業させた前後から計画されていた、3号線と4号線の短絡線である。新橋駅での計画にない直通運転に続き、これもまた計画外のものである。東京高速鉄道の既存線と接続して建設費を圧縮し、また一体的・効率的に運行したいともくろんでいたようである。
東京市は長い目でみた路線計画と異なる路線網になることをあまりよく思っていなかったようだ。なお、現在の丸ノ内線赤坂見附四ツ谷区間にあたる。赤坂見附で銀座線と丸ノ内線が対面乗換えできるのもこの計画の名残である。

この計画の特徴としては、どの路線もすべての路線とどこかで1回で乗り換えが可能であるところ。この思想は現在の東京の地下鉄にも踏襲されている。
これは路線図の類型としてはターナー型として分類できそうである。(この辺の詳細は各自お調べいただきたい。後々記事で書きたい気もするが。)

こうしてみると、地下鉄計画は戦前に構想したものであっても、路線のつなぎ方こそ変わっていても概形はさほど変わっていないことから、現在の路線網にも大きく影響を及ぼしているといえそうだ。

 

どこでもドアきっぷでゆく西日本右往左往旅行記③

鳥取駅から砂丘へ向かうバスを探す。観光向けのバスは当面の間運休となっていたが、とりあえず普通の路線バスに乗れば行けるらしい。

バスターミナル手前側からシャトルバスのようなものも出ていたが、それより奥のバス停から先発便があると知り、そっちに乗ることに。

バスは鳥取駅前の大通りを進んで、県庁前に突き当たったところで左折する。しばらく街を進んだところで今度は右折し、丘を越えて砂丘へと向かう。

トンネルを抜けるとそこは鳥取砂丘だった。

のったバスは地元向けのバスだったので、こまめに停車しながらのんびり進んでいた。そのため、後から来たシャトル便になんと途中で追いつかれてしまった。

そして、鳥取砂丘最寄りと放送のあった砂丘東口で下車する。

思ったよりもはずれたところで下されたと思い、周りをふと見渡すと、シャトル便は砂丘の公園施設へ入っていった。ああ、あちらに乗れば楽だったなあと今更思ったのであった。

まあそれはいいとして、とにかく砂丘の中へ入る。自分は小学生の頃に行ったっきりなので十数年ぶりだった。

どこでもドアきっぷでゆく西日本右往左往旅行記②

米原に到着。まずはどこでもドアきっぷを入手する。あらかじめ予約していた番号を入れてゲット…とすんなりは行かなかった。

1人分キャンセルの必要が出たのだ。

この作業が結構手間取り、普段はない特別なきっぷなので駅員さんに聞いても本部に問い合わせ、挙句間違った答えが出てくるなど、混乱の様相であった。手数料なしでキャンセル可と言われたと思ったらそうでもなかったり。

結局1時間くらいしてから、一枚払い戻した上で切符を2枚てにいれた。

 


とりあえず、山陰を目指すことにした。西日本エリアの特急を満喫するならここは外せない。まず鳥取へむけて京都発のスーパーはくとに乗ることにした。

どこでもドアきっぷは6回まで特急・新幹線の指定席を取ることができる。事前にも予約できるみたいだが、今回はどこに行くか決めていなかったため、きっぷ使用開始後に取ることにした。まずはスーパーはくと5号の指定席をとった。

 

●新快速 姫路行き

0919米原→1013京都

 

米原から京都までは新快速に乗車。自分の地元の滋賀県を通り抜けつつ、京都へ。

 


京都にたどり着く。

適当にめしを食おうと思い、地下にあった適当なうどん屋さんへ。まあまあ美味かった。

 

スーパーはくと5号 倉吉行き

1054京都→1351鳥取

 

切符を入れて改札を通り、ホームへ。ブロロロとエンジン音を響かせるスーパーはくとに乗り込む。10時54分、京都を出発。鳥取到着まで3時間の旅。

指定席券には増2号車と書いてあった。どうやら座席は増結編成らしい。車内放送では「まし2ごうしゃ」と読んでいた。てっきり増結の「ぞう」だと思っていたら違うらしい。

車内販売がないので、京都で調達したお菓子とコーヒーを嗜みながら京阪神を通過する。早起きの疲れゆえか姫路あたりでうたた寝もした。

目を覚ますと、窓には絵に描いたような山の中ののどかな風景が広がっていた。いかにもこれが中国山地の風景といった景色だった。列車は智頭急行の路線を走行していた。

鳥取についてからどうするか、砂丘への行き方などを調べつつ、ぼんやりと過ごした。

 


13時51分、鳥取駅に到着。立派な高架駅だが、自動改札のない駅だった。

鳥取駅前はいかにも地方都市と言った雰囲気の街並みであった。

駅前の広場に出て、鳥取砂丘行きのバスを探した。

どこでもドアきっぷでゆく西日本右往左往旅行記 その①

(写真など追加予定)

 

11/21

三連休で移動の旅に出た。


今回は限定発売のどこでもドアきっぷを使用した。JR西日本の管内であれば特急も新幹線も2日間乗り放題という夢のようなきっぷである。

西日本に加え、九州、四国も範囲となる3日間の券もあったが、日程の都合と、西日本管内におけるフリーきっぷのレアさを鑑み、2日券にした。(四国と九州はほぼ通年でお得なフリーきっぷが売られているイメージなので、またいけるかなと)

どこでもドアきっぷは2名以上同一行程という条件がある。そこで水曜どうでしょうが好きな大学時代の友人を誘った。彼なら多少の限界行程をしても「どうでしょうっぽくていいね」で済むかなと思ったのである。

なおもう1人連番の友人がいて、3人でまわる予定であったが、仕事の都合上来れなくなり、やむなくキャンセルとなってしまった。残念。

 

フリー区間はJR西エリア限定なので米原まで普通のきっぷで向かう。早朝ののぞみに新横浜から乗ってまず名古屋へ。とりあえず予定では6時18分発ののぞみ1号の自由席に乗ることにしていた。

我慢の三連休と言われてたから空いているかと思いきや、この日は自由席はかなりの混雑で立ち席で埋まってた。

「1本待つか…」と思って待とうとしたところで

友人「そうだなあ、この列車の指定取ってたんだけどなあ」

!?

 


あれ?昨日自由席で行く流れじゃなかったっけ?

 


初耳であった。

ブザーが鳴り終わった後、慌ててだだ混みの2号車に乗り込む。

指定席は14号車だったので、新幹線の通路を200メートルとぼとぼと歩いて行った。

もっと早く言ってくれ。

 

●のぞみ1号 博多行き

0618新横浜→0734名古屋

今から指定席に変えられないかなと車掌さんに聞いたがこの列車はあいにく満席とのことで、14号車のデッキで名古屋まで過ごすことにした。

 


この旅において、自分のスマホはあまり使い物にならない代物になっていた。いわゆるギガ制限がかかっていたのである。

時は少し遡り、10/31と11/1の2日間「アイドルマスターシャイニーカラーズ」のライブ配信「music dawn」があった。本放送は見れなかったが、アーカイブ配信を購入して数日後にどちらも観た。

家にある通信環境が貧弱すぎて(実家が不必要なのに何かのついでに契約してしまったSoftbank airを貰っていた)高画質だとしょっちゅう止まってしまうため、スマホテザリングで観ようという方針に変えた。

そのため、ある程度覚悟していたが案の定、20日手前で通信速度制限をかけられてしまったのである。

よって、wifi環境下と友人のスマホでしかほぼ情報が得られないという、図らずしも縛りプレイ旅行となってしまった。

 


名古屋までJTB時刻表をぼんやり眺め、時々貧弱なShinkansen-free-wifiを使ってTwitterをやりながら過ごした。

途中からデッキに友人がやってきたので、適当に話しながら名古屋まで過ごした。

 

 

●ひかり535号 広島行き

0737名古屋→0802米原

名古屋にてひかりに乗り換え。米原に向かう。

朝飯どうしようかという話になったが何も決まらなかった。この旅は最後まで色々と適当である。

 

 

その適当さがのちのち事件ともなるが…