南津電気鉄道 多摩・相模原に眠る幻の未成線 ③路線探訪編(後編)
路線探訪~ここを列車が通る予定だった~(後編)
(2017年夏、C92にて発行した同人誌の内容を一部修正のうえ掲載しています。)
鑓水駅~武蔵相原駅
ここまでの区間は計画の段階でとん挫してしまったため遺構は全くありませんでした。しかし、この鑓水駅から終点の相模川尻駅までは実際に用地買収や建設工事が行われた記録の残っている区間です。残念ながら、ニュータウン開発に伴う区画整理や造成、住宅開発が行われたため、分かりやすく目立った遺構は現在はほとんど残っていません。しかし、ほんのわずかに痕跡が残る場所もあるので、その場所も含め見ていきたいと思います。また、過去の航空写真も参照してかつての遺構の在りかについても考えてみようと思います。
鑓水駅は、現在の八王子市鑓水、柚木街道の鑓水公会堂入口交差点を北に少し行き、大栗川を渡る橋がある付近に予定されていました。この地区は、南津電鉄の計画の発祥および中心となった集落で、会社設立の会議もこの鑓水の永泉寺で行われています。昭和3年(1928年)11月10日に昭和天皇の即位の礼を記念し、「御大典記念此方鑓水停車場」の石碑が路線完成を見据えて駅予定地付近に実際に立てられるなど、計画に対して前向きであったことが見て取れます。なお、この石碑は現在は八王子市絹の道資料館の北西に移設されていますが、現存しています。 南津電鉄の計画が確かに存在したことを示す数少ない物理的証拠の一つです。
鑓水駅から相模相原にむけて進む予定地の一部は、実際に工事が行われ、線路が敷設可能な段階まで整地が行われていました。現在では周辺の道路から見た限りではほとんど分かりませんが、鑓水駅予定地を出て西側すぐの写真民家の山側斜面の部分に線路用地が確保されていました。1947年の米軍撮影航空写真(下図)を見るとその路盤の跡がくっきり見えています。年月は経っていても他地区に比べ大きな開発の手が入っていないこの部分は、いまだに遺構が地形には残っていると推察されます。
この先、線路は斜面から離れて柚木街道を横断し、鑓水枝畑交差点を掠めて南方向へ進路を変えます。この部分も路盤工事は実施されていたため、かつては用地跡が判別できたようですが、多摩美術大学建設に伴う造成により、その痕跡は姿を消しました。線路は鑓水駅から西へ向かい、鑓水枝畑の交差点南東を掠め南に進路転換します。線路工事の痕跡が見られたのは、その少し先の多摩美術大学敷地南端あたりまでだったようです。
計画線は現町田市に入る前後で進路を再び西に向け、JR横浜線相原駅を目指します。 この武蔵相原駅の横浜線への接続方法については幾度か検討がなされていたようで、初期計画では横浜線と直交する形で接続していますが、横浜線に並行して駅を設置し、スイッチバック方式とする案や、直交する本線に加えて分岐乗入れ線を別途建設する案も検討されていたようです。
武蔵相原駅~相模相原駅
武蔵相原駅は、現在の町田市相原町付近に予定されてました。本図面の計画では横浜線相原駅の南側で90°交差し、その上に駅の建設を予定していたようです。また、当駅は横浜線と乗換駅になるはずでした。
さて、この区間では武蔵相原、相模相原と、異なる旧国名を冠した相原とつく駅名が連続しています。一体どういうことなのでしょうか。実は、この地域は境川(かつては高座川とも呼ばれた)という川にまたがって栄えた相原というひとつの集落でした。これが1594年の太閤検地で境川を正式な武蔵と相模の境界としたため、相原の集落は分断されることとなり、両岸で所属国の異なる同じ地名が生まれることとなりました。この境界はのちに都県境界となり今に至ります。現在でも、町田市・相模原市双方で相原という地名が存在しています。このふたつの相原地区を通過し、かつ両地区に駅が計画されたために旧国名を冠し区別することとなったようです。
線路は西進し、境川を越えて神奈川県に入ります。この境川は橋本以南では大幅な河川改修が行われていますが、相原付近は未改修で、かつてのままの蛇行した流路となっています。川を渡って相模原市の相原地区を南西に進んだ先に、次の相模相原駅があります。
相模相原駅~川尻駅
相模相原駅は相模原市緑区相原6丁目付近に予定されていました。ここは旧相原村に当たる地域になります。
この区間もわずかに遺構らしきものが残っていた区間です。1944年陸軍撮影航空写真にはうっすらと右上から左下方向へ向かう線らしきものが確認できます。これが南津電鉄のもうひとつの工事の痕跡です。ちなみに、鉄道省の文書にも川尻付近での工事開始の記録が残っています。
線路は相模相原を出ると、小規模な工場群を通り抜け、ショッピングセンター・コピオ付近を通過し、相模原市城山総合事務所の北東、城山交番前交差点のやや北まできたところで終点の川尻駅に到達します。
終点・川尻駅は、相模原市緑区 旧城山町の中心部に位置する予定でした。
ひとまずはこの川尻までの敷設計画だったようですが、正式な書面では残ってないため真偽は不明ではあるものの、地域住民らの証言によると、この駅から富士五湖方面への延伸も視野に入れていたそうです。
また、この川尻地区を含む旧城山町地区は、南津電鉄と同時期の相模原市街方面からの未成線・相武電鉄や、戦後の京王相模原線の橋本より先、相模中野方面延伸など、何度も鉄道の話が浮かんでは消えていた土地でした。どの計画も具体的な路線計画まで行われてからとん挫していることが大きな特徴です。およそ90年も前から町に鉄道が来ることを願っていましたがこの旧城山町地区に結局鉄道が来ることはありませんでした。
補遺:国分寺延伸線・西府村間島延伸線の考察
国分寺延伸線は、仮の駅データ自体は手に入ったものの、南津電鉄による具体的な経路を示す図面等は残念ながら発見できませんでした。ですが、南津電鉄が間島まで計画短縮した上で乗り入れを行う予定だった、東京多摩川電鉄の路線計画図を見つけることは出来ました。この計画図は1928年のもので、武蔵小金井から三屋までの計画線が描かれています。そして図面には間島駅の具体的な場所、南津電鉄の一ノ宮方面からの延伸線らしき線が引かれていました。文献等との記述とも一致するので、ここではこの東京多摩川電鉄の図面を参考に国分寺延長線区間のなかで南津電鉄が実際に免許を取得していた一ノ宮から旧西府村・間島までの延伸ルートについて考察を行いたいと思います。
間島(あいじま)駅は、現在の府中市の四谷一丁目交差点付近に計画されていた南津電鉄・東京多摩川電鉄の接続駅です。南津電鉄は多摩川を渡ってこの間島駅まで延伸し、東京多摩川電鉄に武蔵小金井まで乗り入れ、さらにそこから中央線に乗り入れることで砂利の都心方面への輸送を考えていたようです。また、この延伸区間は当面は貨物営業のみの予定でした。そして、南津電鉄も多摩川付近で砂利採掘事業に乗り出すつもりであったようです。しかし、昭和恐慌と砂利需要低下により南津電鉄・東京多摩川電鉄ともども実現には至りませんでした。
間島という地名は住居表示には現存しませんが、近くの間嶋神社にその名をとどめています。この付近は東京都下の郊外らしい田畑と住宅の入り混じる風景が広がっています。また、架橋予定地付近の多摩川では、かつて一ノ宮の渡しという渡し船があったようです。
参考文献
サトウマコト『幻の相武電車と南津電車 昭和恐慌で工事中断』
出典
国立公文書館デジタルアーカイブ (https://www.digital.archives.go.jp/ )
国土地理院ウェブサイト 地図タイル(https://maps.gsi.go.jp/)