ねりまの南西

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戦前(1935年前後)の東京市地下鉄計画図を発掘したので今の地図に重ねてみた。

戦前の地下鉄計画図を発掘したので今の地図に重ねてみた話。

1936年(昭和11年)に銀座線の浅草~新橋間を開業させた東京地下鉄道が発行した東京地下鉄道史(乾・坤)をぱらぱらめくっていると何やら見慣れない路線図が載っていた。

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じっくり見ると、今と似た部分もあれば違う部分もあるし、ところどころつなぎ変えてみれば今の路線に近くなるものもある。
この不思議な路線図は、1925年、関東大震災後の帝都復興計画の時に作られた計画を基に、若干の変更を経た1936年(昭和11年)当時の地下鉄計画だ。
この計画図をもとに、戦前の地下鉄路線の計画図を今の地図に重ねてみる作業をしてみた。

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※どうも画像が荒くなってるようなので見づらい場合は以下のツイート画像からご覧下さい…

https://twitter.com/snkisk_s/status/1286345037505335297?s=21

見つけた路線図を現在の地図に重ねただけであり、同時期の別文献の計画図や記述と異なる部分もあるかもしれないが、実現してたら東京はどうなっていただろうか、とあくまで妄想の一つとして思いを馳せてみてほしい。
ただ、最初に紹介した東京地下鉄道建設史の路線図には忠実に従ったつもりである。
(ちなみに最初に見つけたのは大学の地下書庫であった。おそらく5年前くらい。鉄道の古い文献に直接触れられただけで感動があったのを覚えている。)

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同時期の東京市電気局の資料にも類似の計画図が掲載されているため、ある程度信ぴょう性はあると考える。
なお、この路線図の原図はどちらも国立公文書館デジタルアーカイブにていつでも閲覧可能である。

路線図を描くにあたり、以下の点に関して修正や定義を行った。
・駅名に旧字体がある場合は現在使われる漢字に直した。
・ラインカラーはこの図に使用される4色+1色で記した。
・入船町という駅名が重複していたため、5号線の方を(当時の)区名+駅名で(深川入船町)とした。
ちなみに現在の東京の地下鉄にも地名の重複がある場合は新橋駅と中野新橋駅春日駅練馬春日町駅神谷町駅王子神谷駅など、同様の命名方法が使われている。

以下、軽く路線を概説してみる。

1号線:現在の銀座線と三田線浅草線の一部。三田付近で五反田方面と品川方面に分岐することになっていた。
東京馬車鉄道→東京電車鉄道の路線をほぼ踏襲する路線である。
実現しなかった京浜地下鉄道はのちの都営浅草線に引き継がれた。

なお、御成門芝公園、三田の3駅は資料未発見のため仮称として現駅名を記した。

2号線:虎ノ門より南側はほぼ日比谷線と類似したルートをたどる。目黒駅ではなく下目黒が終点なのは目黒不動尊への参詣を意識してか。(市電にも目黒不動尊前までの延伸計画があった)下目黒と天現寺付近は高低差と当時の技術レベルを考えると高架線だった可能性がある。
八重洲口に駅がないのは当時は主要な改札口ではなかったためか。もしくは図ではわかりづらいだけで1号線5号線の槙町駅との乗り換え駅を予定していたのか。
東京駅~浅草橋は総武快速線、浅草橋~森下町付近は都営浅草線、森下町~南千住まではつくばエクスプレスがほぼ同じ経路をたどる。ただしつくばエクスプレスは浅草~南千住間に途中駅がない。
3号線:渋谷~新橋は現在の銀座線の南西部分にあたる。この部分は東京高速鉄道が建設し、開業させた区間である。当初は3号線の計画通り作るはずだったようだが、新橋駅で東京高速鉄道東京地下鉄道と(いろいろあったのち)直通し、そのまま戦中戦後を経てそちらが路線として定着してしまい、思惑と異なる路線となった。
新橋~本郷三丁目丸ノ内線本郷三丁目巣鴨都営三田線にルートがほぼ引き継がれている。
4号線:新宿~四谷見附・本郷三丁目~大塚は現在の丸ノ内線、日比谷~御徒町は蛎殻町から先で若干東に逸れるものの日比谷線が似たルートをたどっている。また、半蔵門~日比谷で有楽町線、浜町~浅草橋で都営新宿線御徒町本郷三丁目大江戸線がわずかながら路線計画と同じ経路を通っている。
路線形がコの字型であるあたりは現在の丸ノ内線と似た性格の路線と言えそうか。
5号線:概ね現在の東西線に一致する。大きく違うのは八重洲通りを突き進むところ。東京駅の真下を通る計画だったらしい。また、早稲田あたりまでは今と似たルートだが、早稲田で急に北に進路を変え、池袋に向かっている。
赤坂見附~四谷見附の連絡線:東京高速鉄道が渋谷~新橋を開業させた前後から計画されていた、3号線と4号線の短絡線である。新橋駅での計画にない直通運転に続き、これもまた計画外のものである。東京高速鉄道の既存線と接続して建設費を圧縮し、また一体的・効率的に運行したいともくろんでいたようである。
東京市は長い目でみた路線計画と異なる路線網になることをあまりよく思っていなかったようだ。なお、現在の丸ノ内線赤坂見附四ツ谷区間にあたる。赤坂見附で銀座線と丸ノ内線が対面乗換えできるのもこの計画の名残である。

この計画の特徴としては、どの路線もすべての路線とどこかで1回で乗り換えが可能であるところ。この思想は現在の東京の地下鉄にも踏襲されている。
これは路線図の類型としてはターナー型として分類できそうである。(この辺の詳細は各自お調べいただきたい。後々記事で書きたい気もするが。)

こうしてみると、地下鉄計画は戦前に構想したものであっても、路線のつなぎ方こそ変わっていても概形はさほど変わっていないことから、現在の路線網にも大きく影響を及ぼしているといえそうだ。