ねりまの南西

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南津電気鉄道 多摩・相模原に眠る幻の未成線 ①歴史概説編

南津電気鉄道 多摩・相模原に眠る幻の未成線

(2017年夏、C92にて発行した同人誌の内容を微修正のうえ掲載しています。)

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同人誌表紙

 広大な面積を誇り、東京を支える多くの人口を抱える多摩ニュータウン。現在は京王や小田急、多摩都市モノレールが通り、特に多摩センターは多摩地域の交通拠点のひとつとして機能しています。一面に広がる住宅街も、開発前は田畑や畜産農場の広がるのどかな農村地帯でした。行政区域も、多摩村・由木村といった「村」の連続した地域で、人口も今とは比べ物にならないほど少なかったようです。

 また、神奈川県北部の旧津久井郡城山町は、中心部の東側に相模川が流れ、都会の喧騒からかけ離れた落ち着いた町です。かつては相模川の水運で栄えていました。

 そんな南多摩の山あいと相模川のほとりの町に、大正末期から昭和初期にかけて、由木村鑓水の豪農の人々を中心に計画された鉄道がありました。その名は南津電気鉄道。開通に向け、一部用地取得まで行われましたが、残念ながら実現には至りませんでした。計画にあたりどのような経緯をたどったのか、なぜ頓挫してしまったのか、そして具体的にどのようなルートを辿る予定だったのか。今回はその謎に迫りたいと思います。

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大正14年(1925年) 南津電気鉄道線路予測平面図 (国立公文書館)

概要と歴史

路線の計画と会社設立

 南津電気鉄道(なんしんでんきてつどう)は大正~昭和初期に計画された、東京府南多摩郡多摩村一ノ宮(現多摩市・聖蹟桜ヶ丘駅西方)から由木村(現八王子市南部)・横浜線相原駅を経由し、神奈川県津久井郡川尻村(現相模原市緑区)中心部へと達する鉄道敷設計画です。南多摩郡津久井郡を結ぶ計画であったため、両郡から頭文字を一字ずつとり、「南津電気鉄道」と名づけられました。

 この鉄道は、養蚕業が盛んであった由木村・鑓水地区の豪農らが中心となって設立され、鉄道敷設により、南多摩津久井へ観光や産業の誘致を行い、由木村を中心とした多摩南部と津久井郡の振興を図ることが主な目的でした。

 また、相模川で砂利を採取し、都心方面へ輸送して利益を上げることも目的としてありました。当時は東京近郊の河川で砂利採取が盛んに行われ、それに伴う鉄道が相次いで開業していた頃でした。現在の西武多摩川線南武線も当初は砂利輸送を主目的とした路線でした。特に、計画時は大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災直後であったため砂利の需要がかなり高まっていた時期でもありました。

 大正13年(1924年)12月23日、南津電気鉄道の株式会社設立協議会が南多摩郡由木村(現八王子市)鑓水の永泉寺にて開かれました。この協議会では、創立委員長に玉南電鉄(現京王線)の発起人の一人でもあった林副重、常務委員に地元の有力者・大塚嘉義が選ばれ、出席者の全会一致で、早速敷設準備を進めることが決定しました。路線計画は順調に進められ、免許申請に向けて具体的なルート案や敷設方式が決定されました。

大正14年(1925年)9月25日申請時の起業目論見書が以下になります。

一、 目的 地方鉄道法により電気鉄道を敷設し一般乗客および貨物を取り扱うものとする

二、 名称 南津電気鉄道 事務所 東京府南多摩郡由木村鑓水2039番地

三、 資金総額 220万円 出資方法 株式

四、 南多摩郡多摩村―由木村―相原―川尻

五、 軌間 3フィート6インチ (1067mm)

六、 動力 電気 東京電燈株式会社より供給を受ける 直流架空単線式 電圧600V

(国立公文書館 鉄道省資料 南津電気鉄道敷設願却下ノ件)

(なお、このデータは敷設却下時のデータですが、文献やその後のデータ等と照合したところ基本的な部分はその後もあまり変わっていないようでした。)

また、駅は

一ノ宮―和田―宮の前―下柚木―上柚木―鑓水―武蔵相原―相模相原―川尻

の9駅の設置が予定されていました。

 この当時、まだ関東大震災の混乱が収まりきらないころだったためか、無差別に鉄道敷設請願が却下される事態があったようです。その影響のためか南津電鉄も何度か申請は却下されますが、大正15年(1926年)11月20日付で「多摩村・川尻村間免許敷設ノ件」で鉄道省の鉄道大臣より敷設認可が下ります。これにより、南津電鉄計画はより本格的に動き出すこととなります。

                        

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南津電気鉄道の免許状(国立公文書館)

玉南電鉄の改軌と国分寺延伸計画

 南津電鉄は当初起点の一ノ宮駅から玉南電鉄(現京王線府中~京王八王子)に乗り入れを行えるよう軌間1067mmで計画されましたが、大正15年(1926年)、乗り入れ相手の玉南電鉄が開業後まもなくして京王線に合併された上、京王側にあわせた軌間1372mmへ改軌が行われました。これにより免許認可早々に接続相手を失ってしまった南津電鉄は、自力での延伸と他線への接続の方法を今一度模索することとなります。また、関東大震災の被害から立ち直るための帝都復興事業により急激に高まったセメント需要に対応し、多摩川での砂利採掘・輸送業への進出もこのころ計画されたようです。結局、多摩川を渡って国分寺まで延伸・中央線へ接続し、都心部へ直通できる輸送路の実現を目指すこととなりました。

 そして昭和2年(1927年)1月27日、「南津電気鉄道国分寺延長線敷設免許申請ニ関スル件」で国分寺延長の請願が鉄道省に提出されました。事業目論見書の内容はほぼ同じで、起点が北多摩郡国分寺村、終点が南多摩郡多摩村、経過地が北多摩郡西府村となっています。

この延長線の駅は

国分寺武蔵国分寺―西府町―間島― 一ノ宮

の5駅が予定されていました。ちなみに、延伸にあたって、国分寺駅ではなく国立駅に接続する案もあったようです。

 

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旧玉南電鉄区間を走る京王線電車(中河原~聖蹟桜ヶ丘)

 ちょうど同じころ、武蔵小金井から府中を経由し、西府村の多摩川沿いの三屋へ至る、砂利採取を目的とした「東京多摩川電鉄」の免許が申請されようとしていました。南津電鉄はこの東京多摩川電鉄と協議の末、一ノ宮から多摩川を渡って1駅目の間島駅(現府中市四谷)までのみを南津電鉄が建設し、間島からは東京多摩川電鉄線に接続して武蔵小金井まで乗り入れをする方向で固まりました。帝都復興事業による砂利特需の好機を逃すまいと一刻も早い都心部への輸送路を確保したかったようです。そのため、この変更後の区間は貨物のみ取り扱う予定となっています。この区間は、昭和2年(1927年)8月26日付で変更後の路線計画を鉄道省に申請したのち、昭和2年12月27日付で免許が交付されています。

 ここまで南津電鉄は震災後の不況下にあってもなかなか順調な滑り出しを見せました。しかしこのころから、日本経済の雲行きが以前よりまして怪しくなっていきます。その影響は南津電鉄も避けることはできませんでした。

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東京多摩川電鉄の線路平面設計図(国立公文書館)

昭和2年金融恐慌

 昭和2年(1927年)3月の片岡直温蔵相の失言に端を発する取り付け騒ぎが発生します。この事件をきっかけに、台湾銀行が休業し、鈴木商店が倒産するなどして、未曾有の金融恐慌が起こります。この影響で、南津電鉄の株式払い込みにも影響が出てしまいます。1割近くの株主が昭和2年7月20日の第1回払い込み期限までに支払いができない事態となり、再度株主を募集することとなります。幸い、9月末にはなんとか資金の目処が立ち、用地買収交渉や工事開始への準備に取り掛かることとなります。ひとまずこの恐慌は乗り越えることができました。

起工式と路線工事

 起工式は昭和3年(1928年)10月21日午前10時、川尻駅予定地にて挙行されました。同日鑓水でも起工式が行われたようです。「相模川尻、相原間工事施工ノ件」「三屋、相模川尻起点二哩六十四鎖間及相模川尻起点二哩六十九鎖、鑓水間工事施工ノ件」で工事に関して正式な認可を受けた記録も残っています。昭和5年(1930年)6月17日の竣功を目指して、工事は川尻駅付近、鑓水駅付近の2箇所で始まりました。この2箇所での第一期工事は相当な進捗があったようで、路盤は相原付近を除いてほぼ完成していました。

一方で、株主らからの株式の払い込みは以前以上に滞るようになります。そしてさらに苦境に追い討ちをかけるような出来事が発生します。

世界恐慌のさらなる追い打ち

 昭和4年(1929年)10月、ニューヨークのウォール街に端を発する大恐慌が発生します。いわゆる「世界恐慌」です。この影響で、アメリカが主要な取引相手であった日本の生糸の輸出が大きく落ち込むこととなり、生糸価格が大暴落してしまいます。デフレと米の過剰な豊作による農業恐慌も相まって、当時は農業が中心だった南津電鉄沿線の村はかなりの経済的ダメージを被ることとなりました。特に養蚕業が主産業であった由木村は悲惨な状況で、全出資の21%が由木村の住民であった南津電鉄は、もはや株主らから株式払い込みがほぼ見込めなくなり、工事費用のねん出がもはや不可能となってしまいました。このため、途中まで進んでいた建設工事も、中断・凍結されることとなります。

 さらに、昭和5年(1930年)前後、帝都復興事業の大部分の完了とほぼ時を同じくして、砂利の特需は終わりを告げ、貨物輸送での収益も見通しが不安定となり、東京多摩川電鉄ともども間島方面延伸の建設計画も宙に浮いてしまうこととなってしまいました。

会社解散

 昭和恐慌により多大な負債を抱えた南津電鉄は、工事中止以降しばらくはまったく音沙汰がなく、もはや会社は解散同然の様相を呈していました。南津電鉄の重役らも負債の処理に追われ、もう建設どころではなかったようです。昭和6年ごろに一度建設再開の動きはありましたが、結局資金難が原因で再びとん挫しています。

 そしてそうこうしているうちに昭和8年(1933年)前半頃、各区間の敷設免許失効の通牒が鉄道省より通達されます。

計画の終焉

 昭和8年(1933年)8月8日に臨時総会が開かれ、会社解散の決議がなされました。清算人を選定の上、会社解散の申告・手続きを行い、鉄道省に免許を正式に返納する運びとなりました。

 昭和9年(1934年)6月23日「会社解散ノ決議並起業廃止ノ件に対スル免許状(多摩村川尻村)返納ノ件」同年8月15日「多摩村西府村間免許状(不能)ニ関スル件」の2通の文書を最後に、南津電気鉄道の計画は正式に消えることとなりました。



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会社解散ノ決議並起業廃止ノ件に対スル免許状(多摩村川尻村)返納ノ件(国立公文書館

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多摩村西府村間免許状(不能)ニ関スル件(国立公文書館)

これらの文書を最後に南津電鉄計画は終焉を迎えた。

 

 

参考文献

サトウマコト『幻の相武電車と南津電車 昭和恐慌で工事中断』

府中市史』『新八王子市史』『相模原市史』『城山町史』 

出典

国立公文書館デジタルアーカイブ (https://www.digital.archives.go.jp/ )

国土地理院ウェブサイト 地図タイル(https://maps.gsi.go.jp/