ねりまの南西

旅行記、勉強や研究、思うことなど

論理的思考が放棄できない人間

昨日か一昨日にこのようなブログ記事がバズっていた。

"論理的思考の放棄 -  大遊 (Daiyuu Nobori) の個人日記" https://softether.hatenadiary.org/entry/20070324/p1

よくみたら13年前の記事でなんで今と思ったけど。
この記事の内容ははっきり言って、天才の思考回路ずばりそのものなので自分のような凡人あるいはそれ以下の人間にはさして参考にはならない。が、自分の思考がこのような人にしてみれば一段階下にいることはよくわかった。
天才は論理性を無意識下で自在に操れて、自分は彼が意識しないうちに操れる論理性すらみについていないのだ。
例えば、自分は学生のころからゲームを何度も作ろうと試してきた。テトリスの模倣品からギャルゲもどき、鉄道シミュレータ風のものまで様々なものに手は出してきた。だが、自分が許せるレベルのものは一度も完成することはなかった。入門レベル・試作レベルのものはあったとしても。
もちろん頭に何か思い浮かぶものがあったから着手したのだが、具体的には、テトリスのブロックをどのように表現するか?ギャルゲの絵はだれがどう描くのか?シミュレートする電車や路線の情報はどういうに設定するか?というあたりで行き詰った。動かしたいイメージはあるのに、手が動かなくなる。感覚は動くのに、論理につなげられない。
この時、頭に壮大な完成図が浮かんでいるような気がしている。だが、いまよくよく思い返してみると、具体的なものが何ひとつ決まっていないのである。この完成図は脳内でははっきりとした像があるのに、紙に書きだそうとするとたいてい細部があやふやなのである。おそらく寝ているときにみる夢に似たものだと思う。
逆に言えば、頭の冴えるクリエイティブな人はこの夢の中身を具体的に落とし込める力があるのだろう。それは、努力のたまものか、天性のものか、あるいはどちらもかはわからないが。

とにかく、本来は頭の中で浮かぶものは無数にあるが、それを具現化するのには、かなりの論理性が必要となる。
天才は、その論理の組み立てを感覚的にできるというだけなので、素人が感覚で挑んでもうまくいくわけがない。
当該ツイートのリプライだったか、平仮名を書くときの思考回路に似ているというツイートを見たが、まさしくその通りだろう。我々は何も意識せず日本語を自在に操れるが、これを日本語未学習者に感覚でやれと強いても何にもならないのと同じである。だが比較的ニッチな分野となるとその理論が見えにくかったりする。

とりあえず、まず平仮名を丁寧に習うところからかな自分は。